ジュリアン・ペトロフ君の悩みは非常に甚大だった。
ヴィランにさらわれた石油財閥代表取締役社長であるところの父を助けるために曾祖父の巨大な地下墓でヒーローパワーを手に入れ、無事にヴィランを撃退したまではよかった。しかしそれ以降の彼の人生は原油のように暗い色に染まってしまった。
ジュリアン君が得たのは、身体のあらゆるところから原油を産出し、それを自在に操る能力だった。有機化学の博士号を十歳で取得した天才児だったかれは、瞬時に超硬化プラスチックに身を包んだり、業火の柱ですべてを焼き払ったり、亜高速で飛行したり、ほかのどのヒーローにも劣らぬパワーを身に着けていた。
でも、ジュリアン君の評判は上々とは言えなかった。なぜならかれが戦闘をするとあたりには原油のしずくやプラスチックの破片が散乱するからだった。街の上空で救命活動をすればニュースはまるでボストン糖蜜洪水が起きたかのように騒ぎ、山野でヴィランを食い止めれば土壌が永久に損なわれたと言って農家や環境運動家からの非難が相次いだ。その上、二酸化炭素の排出量も尋常ではなかったから、《ペトロ・ノワール》(ジュリアン君のヒーローネームだった)の活動が報道されるときはなぜか「地球の温度が何度上昇した」という根も葉もない数値が付せられていることが多かった。
いかな天才児も、多感な青年期ともなれば脆いもの。心無い報道やSNSでの中傷に耐えきれなくなり、いつしかジュリアン君は《ロレンスの腕輪》の力を解放することをやめ、ペトロフ社の主任研究員としての仕事に打ち込むことに決めた。
ヒーロー派遣企業をやめたその日、ジュリアン君は車に乗り込むまえに一度だけ社屋を振り返った。ガラス張りの社屋の上には《マッシブ・ソラス》が社長と握手をする看板が飾られていた。
《マッシブ・ソラス》は太陽から来た不老不死のヒーローだった。恒星のパワーを使うかれの能力はつよく、環境にもやさしく、報道からも環境活動家からも高く評価されていた。ジュリアン君にとって《マッシブ・ソラス》は幼いころからのあこがれの存在だった。しかし、チームアップをすることはなかった。火炎系のヒーローと組むと、意図せぬ延焼や爆発を招いてしまうからだ。
太陽から来たわりには人間そっくりの《マッシブ・ソラス》のトレードマークはカイゼル髭と強靭な体躯だった。いまどきのヒーローはタイトなボディースーツを着るのを嫌がるものだけど、《マッシブ・ソラス》はそういった恥じらいとは無縁だった。
一度でいいから話してみたかったな、とジュリアン君は思った。《マッシブ・ソラス》は多忙で、会社にいるところを見たことがなかった。《マッシブ・ソラス》は豪快で、最強で、平等に優しかった。きっとサインにも快く応じてくれるだろうと思った。
ジュリアン君は看板を見るのをやめ、車に乗り込んだ。
《ロレンスの腕輪》はそのままジュリアン君の腕にはまっていた。一度腕輪を着用したものは死ぬまで外すことができないようだった。力を解放しなければ問題は起こらない……そのはずだった。
しかし、ときの大統領の浅慮で起きた世界規模の石油危機が、彼の身体に望まぬ異変をもたらしていた。
ある朝ジュリアン君が起きると、ベッドのシーツが黒く濡れていた。微かに酸化した油のにおいがした。かれはもう二十代も半ばだったから、これが加齢というものか、と思った。皮脂の分泌量が増えたのだろう。かれはドラマの中の俳優に憧れて以来はだかで寝ていたから、それがそのままシーツにしみこんでしまったのだろうと思った。そのまま仕事に向かい、自動運転車のなかでAmazonを開き、男性用のボディーソープ(メントール入り)を買った。
もちろん皮脂ではなかった。
出勤してしばらくののち、ジュリアン君は猛烈な尿意に襲われた。小便器に立ったかれは、鈍い音を立てながらオパールのごとく輝く黒い液体をほとばしらせ、そのまま下水を詰まらせてしまった。
ジュリアン君は卒倒し、そのままヒーロー派遣会社のラボに担ぎ込まれた。綿密な検査のすえに、かつての主治医はこう言った。
「きみの……というか、きみの腕輪の能力が中東の原油によって成り立っているのは知っているね?」
「ええ」
ジュリアン君はもごもごと答えた。かれは自分の能力が恥知らずな帝国主義的野心にもとづく収奪の結果であることを知っていた。アラビアのロレンスが持ち帰った腕輪がなぜかセオドア・ルーズヴェルトの手に渡り、石油公社の社長だった曾祖父がそれを管理することになったのだ。
「そしていま、中東の原油タンクは満杯を迎えようとしている」